先日、山口県にある秋吉台を訪れる機会があった。秋吉台は日本最大級のカルスト台地として名高い。隆起した緩やかな台地には石灰石が点在し、その地下部分には鍾乳洞が広がっている。訪れた日の前日は鍾乳洞が閉鎖されるほどの豪雨が降り、当日もかなりの大雨であった。秋芳洞と呼ばれる鍾乳洞の鑑賞ルートとして、案内所が併設されている麓の正面入口から鍾乳洞の中の登り道で鑑賞するのが一般的のようであるが、その日は3歳の息子と一緒だったこともあり逆ルートの下り道での鑑賞をした。
洞内に入って肌寒い空気に慣れた頃には、大自然による造形の虜になっていた。奇しくも逆ルートでの鑑賞だったので、水の流れとともに洞内の造形を鑑賞することとなった。台地に降り注いだ雨が地下水となり、鍾乳石から染み出したり、ある場所では滝のように注ぎ込まれたりしながら、いつの間にか洞内には川ができ、棚田や柱状の鍾乳石といった水の流れによる造形は、驚くべき多様さがあり、もしかすると地球上に生命が蔓延る前、地上はこんな風景だったのかもしれないと思った。同時に建築を考える上でいかに限定的な造形しか作れていないのだと諦めにも似た感覚を覚えた。そうした雨や地下水によって溶かされた石灰岩と地球の重力が作り出す総長約1kmにも及ぶ造形ショーは、地球上で見得るあらゆる地形がこの洞内に凝縮されているのではないかと思うくらい多様で、そしてどれも壮大な美しさを持っている。台地に降った雨粒が洞内で川となり、下流では海のような大きな流れになって、霧っぽい森に流れ出ていく様子は、近年よく見る地球上の水の循環のイラストをそのまま目の当たりにしているような感覚であった。何よりも暗闇の岩と地下水の世界を出た瞬間に見えた、光と水によってもたらされる生命力が爆発しているかのような植物の美しさは忘れられない。
興奮冷めやらぬまま、カルスト地形について調べてみると、秋吉台のカルスト台地とは3億5千万年前に海の底であった場所にサンゴ礁が堆積し、隆起して台地となったとのことである。驚くべきことにその堆積層の厚みはなんと500mとも1000mとも言われている。海底だったところが隆起し、山になる。地表だったところが海底に沈んでいく。それは地球の表面がまるで波打つ液体であるかのような振る舞いで変形を繰り返している。そういえば、世界で一番高い山であるエベレストもかつては海の底だった聞いた覚えがあるが、地球にとってみれば数千メートル程度の地表の上下くらいは驚くべきことではないのかもしれない。このような地形に身を置くと、宇宙規模のスケールで地形・時間を捉えると、人間という存在がいかにちっぽけで、同時に地球という存在がいかに流動的であるかがわかる。
ところで、ここのところVision ProというAppleによって開発されたXR(クロスリアリティ)体験と呼ばれる現実世界と仮想世界が融合された世界観を体験できるデバイスを手にいれた。空間コンピューティングという新しいタイプのコンピューターで、簡単に言うと現実で見ている空間にパソコン内の画面のコンテンツが現れ、それらが同時にヘッドセットを通して体験することができるのであるが、これまでは平滑で固定的なスクリーンを通して接していた仮想世界がこれまでにないほどシームレスに現実の中に現れる。逆にいうと、限りなく現実のようなデータ化された実空間を仮想世界ではないような感覚で見ているだけとも言えるが、いずれにせよ、新しいもの好きの私にとっては絶好の遊び道具であり、時間が許せば毎日のように新しい技術による世界観に浸っている。
最新技術を通して体験する世界と自分の体一つで向き合う地球という環境、どちらも他には変え難い体験である。空間コンピューティングではやはり現地の生感、あるいは体全体が感覚器として受け取っている場所の情報は体感することはできない。秋吉台を訪れて改めて、現実の場所を体感することの強さというか、かけがえのなさのようなものを強く感じることができたと思う。ただ、技術の進歩によって経験できるものは限られているというある種ステレオタイプ的な実体験の唯一無二性を強調するのも何か違和感がある。これは自分の感覚値でしかないが、XR技術のような情報技術の発展、インターネットの発達によって、人間の実空間を捉える身体に備わるセンサーが技術の発展に伴いながら研ぎ澄まされてきているのではないかと感じている。自分の中ではそれは顕著に感じられるものだ。もしかしたら、情報化された空間の体験に慣れた私たちは、実空間において情報化できないことに対してはこれまで以上に感覚をより開くようになり、場を感じ取る力が相対的に強くなったと言えるのかもしれない。
こうした感性を通して、人間ははどのような実空間を求め、そして私たち建築家はどのような実空間を作ることができるのだろうか。以前に比べて地方の山間部の集落や農村の風景、その地域の風土から生み出されるその場所特有の建築そうしたものに目を奪われることが多くなった。秋吉台の石州瓦で葺かれた集落の屋根の風景はほとんどその地形と一体化された心地よいものに見えたし、一般的に使われている鋼板葺きの屋根は逆に違和感すら感じられるものであった。建築は敷地という与えられた場に作られ、ほとんどの場合は動くことはないものであるが、現代の感性によってこれからの建築はその不動性がより強められたものとして、地形に組み込まれていくのかもしれない。
(ヒトツチ 「瓦建築考」 2024年8月掲載)