高松市でプロジェクトを進めていた2016年頃から、石について考えている。石の素材自体というよりは、石の持つ時間性についてと言ってもいいかもしれない。それまでは自分にとって石は、骨董の世界が持つ捉えどころのない奥深さに似た捉え切れない世界観を持ち、あまり魅力を感じられない素材であった。むしろ、変化しない、強すぎる素材感を扱い切ることができないため、避けていた材料でもあった。現代建築の石の扱い方として仕上げとしての材料という認識があり、構造と仕上げはできるだけ一致させて、組み立て方に明快さを持たせたいと思っていた当時の自分にとっては、うまく扱える代物ではなかった。

以前より彫刻家のイサム・ノグチと彼の作品のことがずっと頭の片隅にあったのだが、高松を訪れる度に以前にも増して彼の存在感を身近に感じていた。現場に向かうある時、牟礼にあるイサム・ノグチ庭園美術館を訪れてみることにした。そこには多くの石の彫刻があり、まるで時間が止まっているかのような感覚があった。敷地のあちこちに置かれているまだ作業途中であるような、もうこれ以上触る余地がないような、そんな作品群によって場が立ち上がり、自分の中の時間の感覚が揺さぶられるようで困惑した。ノグチが亡くなってから30年以上も時間が経ち、建物はあちこち補修されていた。屋外の彫刻は、人や建物など周辺の変化に対して他人事であるように、まるで何事もなかった顔で鎮座していた。もしこのまま100年、200年の時間が経ったらこの場所はどうなるのだろう。そのように想像せざるを得ないような緊張感が残されていた。そこに建っていた蔵などの建物はなくなり、地形ととも彫刻がその場の風景に溶け込んだ遺跡のような風景が想像された。

石の持つ時間性、あるいは物が持つ固有の時間性にとても興味を持つようになった。石が、石という素材になって、石でなくなる時間はどのくらいだろう。鉄が鉄になって、鉄でなくなる時間はどのくらいだろう。木は?ガラスは?と様々な素材は固有で持つ寿命があるのだと意識するきっかけになった。身の回りにある建材の寿命の多くは、20~30年、構造的な再現性を意識しても50年程度。その程度の時間軸でしか建築を考えていなかったことに気がついた瞬間でもあった。素材として生まれ、時間とともに風化し、分解されていく。それは素材だけではなく建築にも言える。多くの建築が生まれては姿を消す時間は、石にとってはほんの一瞬なのだろう。イサム・ノグチが石を好んで使って作品を作っていく気持ちが少し理解できたような気がした。同じ1年という時間であっても、個々の素材にとっては全く捉え方が変わってくる。考えてみれば当たり前のことに気がついただけだったかもしれないが、自分にとっては、大きな気づきだった。

ものの寿命を意識し始めたとき、建築にとっての寿命とはどういうことか、環境にとっての寿命とはどういうことかという問いが同時に生まれてくる。そもそも建築は色々な素材を使って組み立てるので、異なる寿命の素材で出来上がった場として存在している。そのような見方で世界を見渡してみると、私たちの前に本当に多くの異なる時間軸を持つものによって作られた場として建築が現れてくる。庭や自然環境においては、草花のようなサイクルのとても早いもの、樹木のように数十年のサイクルのものもある。石はもしかしたら数百年・数千年、地形のような数万年というサイクルかもしれない。実にバラエティに富んだ寿命のものたちに囲まれて私たちは生きている。そのように世界が見えた途端、建築を捉えることは時間性を捉えることと同じなのではないかと思えた。そして、建築と外構、建築と敷地、敷地と周辺環境などこれまで何となく線引きしていた境界がないようにも感じられた。

建築を作ることは、その場に時間を積層させていくこと。何十年、何百年、あるいはもっと昔から重ねられてきた時間が作り出している場所性、それが土地の持つ性格なのかもしれない。土地とは時間が地層化された場所であるとして考えると、新築・改築という建築の捉え方をしていることすら世界を微視的に見すぎているようにさえ感じられる。そうした建築本意の場のあり方ではなく、どのような時間性を場の秩序として与えられることができるか、建築を考える上で扱うべき対象なのかもしれない。しかし、秩序あるものは時間によって少しずつその秩序は解かれる運命にある。何もしなければ無秩序へ向かう自然の不可逆性には誰も逆らえない。場に時間性という秩序をもたらし続けることが場の持つ歴史であるとすると、いまあるこの場は私たちの先祖たちとの共同の建築行為として場の歴史を紡いでいる。

「これは未来への贈り物です。価値あるものはすべて、最後には贈り物として残るというのはまったく本当です。芸術にとって他にどんな価値があるでしょうか。」庭園美術館という場をイサム・ノグチが自らに、そして世界に贈り物として作った。贈り物を受け取った一人として、高松に通った2016年から6年以上もの間、価値のあるもの、価値のある場とは何だろうと自問自答を繰り返した。その場に積み上げられた時間を感じ取り、また少し積み上げ、ていねいに受け渡していく。そうした継承こそが価値あるものを作り出すヒントなのかもしれない、そのように感じている。2016年から8年経ったいま、別のプロジェクトでまだ石と向き合っている。まだまだ自分には扱いきれる代物ではないが、石は何か新たな気づきをもたらしてくれるかもしれない。

(ヒトツチ 「瓦建築考」 2024年6月掲載)